前提やら基準が自然解消な人は苦手
このブログは育児生活を中心に綴っていますが、育児生活という目線は勿論、親目線です。子どもたち自身、育児されている感覚はあまりなく、ただただ毎日を生活しているだけでしょう。口煩くも頼もしく生活をサポートしてくれる親と時間と場所を共有した生活。他に経験も無いので、それ以外を知っている訳でも無く、これが普通で基準と思います。私も幼少の頃、自身の親がこんなにも大変な目に合っていたとは露知らず。親は社会の荒波に揉まれ、将来の不安を抱えながらも子どもたちが無事で居られるように、将来困らないようにと一生懸命、育児やら教育やらします。心のキャパシティに余裕があるかどうかはそのご家庭や本人次第と思いますが、まぁ現代社会においてはあまり余裕のある育児世代って居ないのではないかと思っています。
そんな中、私は割と余裕の無い方に分類されるかと思います。主に精神的なところです。そして人を追い詰める支配的な原因は “人” です。救うも “人”、追い詰めるも “人”。皮肉な話です。
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文脈、経験に影響する生物
随分と昔、10 年以上前に聞いた話ですが、人間は文脈や経験に影響を受ける生物らしいです。例えば気温。言われてみれば不思議な話があります。寒さ厳しい冬がようやく和らぎ、春を感じる気候が始まると、不意に暖かくなった感じが物凄くします。それが 15 度前後だったとしても、です。ところが一方で、真夏の気温を経て秋を迎え、みるみるうちに気温が下がって 15 度前後になると、かなり寒く感じて風邪を引きやすくなります。温度は同じ 15 度前後だというのに、感じ方が随分と違います。人間はその前のことと比較して物事を考えたり感じるからです。
また、戦争だとか紛争だとか、歴史的なイザコザが国同士だとか組織同士の軋轢を残し続けます。憎しみに対して報復し、新たな憎しみを生み、また報復し、という負の連鎖が続くからです。これもまた、文脈を帯びたモノです。
と言うのが一般論ですが、個人においてはそうでない人も多く居るみたいです…。
勝手に過ぎたことで水に流れている
個人の話になるので規模は小さいのですが、例えば個人間でイザコザだとか衝突が起きたとしましょう。その際、ちょっとした蟠り (わだかまり) が残ると思います。これを解消するためにはお互い話し合って理解を合わせて、双方に非を認めて謝罪するというプロセスが必要となります。ケジメだとか仁義という言葉も使われるかもしれません。これはちょっとビジネスライク過ぎるかもしれませんが、実際、子どもたちが通う保育園や小学校においても、必ず “何が不適切なコトだったのか” を振り返ってそこに対して反省し、そして謝罪して改善に努めるというプロセスが踏まれて指導が生じます。
ところが、これが欠落している人が居ます。欠落しているというより、このプロセスに対してどこまで厳格かどうかが人それぞれで違うのが実態なのだと思います。ある人は割と律儀にこのプロセスが普通と思っている一方、別の人はビジネスでは勿論普通だけど、私生活において家族や仲の良い友達同士だったら、一晩寝たらゼロにクリアされてお互い水に流して接するのが基準と思う人も居るみたいです。
この手のタイプと付き合っていると結構しんどいです。こちらがまだ悶々としていたり、心許せていない状態であっても、相手はケロッとしていますからね。むしろ何勝手に怒っているの ? といった目で見てきて、こちらに非があると思い込んでいます。その人とはずっと平行線になりますので、必ず最後にこちらが妥協する必要がありますが、妥協したところで謝罪や感謝の言葉もありません。本当に厄介です…。