指導者・教育者の力より本人が一番
育児生活がスタートしてからこのブログをはじめましたが、子どもたちはもう小学 2 年生。もうすぐ 3 学期が終わるので、3 年生になる日も近いです。早いモノです。子どもたちが小さい頃は育児生活って感じでしたが、今では子どもたちの勉強を見てあげることが中心になっているので、教育生活といった表現の方が適切な気はします。
子どもたちに色々とアレコレ教えたり、あれやれこれやれと導いています。子どもたちの自発力を奪っている気はしますが、それでも漢検 8 級、英検 5 級をこの時点で合格出来ている実績もありますし、子どもたちには続けるか辞めるかいつも確認しており、自身のプライドでやると言っているので、取り合えずこのスタイルを継続しています。
とまぁ成果が出ているのですが、こういうときに指導者・教育者が凄いとかって言われることがありますが、私はそんな風には全く思えません。成功は本人によるものです。
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どんなアプローチでも本人の資質と努力次第
指導・教育の難しいところは、対象者とそれを導く人が分かれている点です。指導力・教育力の優越を測る方法が何とも微妙なのです。指導力・教育力が優れている、と聞くと、その人が指導・教育した対象者が輝かしい成果を上げるだとか成長を遂げるといったイメージを持つのが一般的と思います。でもこれ、妙ですよね。対象者の成果って、対象者が出したモノであって指導者・教育者によるものではありません。
極論、対象者に才能があって努力し続けていれば、指導者・教育者は教科書・テキスト・一般的に体系立てられたモノを対象者に提供するだけで勝手に上手になります。それで指導者・教育者が評価されるのって、違和感が残ります。指導者・教育者の優越で対象者の結果が必ずしも決まる訳ではないのです。
誤った成功体験を与え兼ねない
もっと言ってしまえば、指導者・教育者があまり的を射た指導・教育を提供していなく、むしろそれがノイズだったり非効率性を生み出すことも生じえます。そのとき、対象者の成果やパフォーマンスは勿論下がるのだと思いますが、対象者が物凄く優秀だったり根性があって、その非効率を跳ね除けるくらいの成果を上げたらどうなるでしょうか。指導者・教育者は評価されてしまいます。そしてそれを成功体験として捉えてしまうでしょう。
この誤った成功体験を信じて、次の対象者に同じことをする。その結果、その対象者は非効率性に苛まれてしまい、なかなかな犠牲者になります。これは勉強やスポーツだけの話ではなく、仕事においても同じことが言えます。管理職や指導者が誤った成功体験を持っていると、次にその人たちの下に付く人たちが随分と悲惨な目に合います。しかもこの指導者は役職を持ってしまっているが故に妙なプライドもあって厄介です。ということを鑑みると、やはり謙虚さってのは物凄く大切に思えます。謙虚に構えていると、自身の経験値がもしかすると違うのかも、時代に合っていないのかも、等々、色々考察出来ますので。実るほど頭が下がる稲穂かな、です。