竜太の父親に求められる器量

このブログは子どもたちが生まれることを機に始めた育児ブログです。子どもたちが小さかった頃は、育児生活の 1 日 1 日がドタバタで泥沼化しているゲリラ戦かのようにも思えていましたが、今振り返ってみるとそれまでの人生に無い新鮮な経験を得ていたように思えます。まぁ当時は “新鮮” なんて前向きな考えに至ることも無いくらい余裕も無く必死でしたが…。今ではその頃とは違う類の悩みに直面していて、何度も触れて来ましたが、竜太に対してはかなり拗らせている状況に思えます。
竜太の言動は年齢を考えると本当に酷く、不誠実なモノです。がしかし、竜太の親を務めるにはそれを受け入れて包み込めるような人格者である必要があり、結局は私自身が試されているようにも思い始めました。
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常識の鎖
竜太の悪態についてこのブログで何度も触れて来ましたが、まぁ小さな子どもの言動と思えば大した話ではないようにも思えます。極論、竜太の欲棒だとか感情に対して短絡的に生じる行動は、竜太が赤ちゃんの頃だとか、保育園に通っているときの言動とそう変わりません。本人はそう変わらないのに、年々、私がそれを許容出来なくなってしまっていて憤慨している状況ですので、今のこの家庭内の不和は私が原因のようにも思えて来ました。でも私だけでなく社会もそういった傾向があります。
私が社会の一例と大それたことを言うつもりは勿論ありませんが、社会もまた、一個人を見る目が変わってきます。竜太の言動の大枠は変わっていませんが、確実に竜太について変わっているとすれば年齢と体格です。年齢と体格から、社会はその個人に求める一定の水準があります。今の竜太で言えば小学 4 年生の平均的なモノを社会から求められても致し方無しです。それが常識というヤツですので。ただ一方で、それは常識という固定概念の鎖に縛られた発想であり、個々、個人、個性を尊重する話と相性が悪いです。竜太の言動を個性と捉えることが出来て、受け入れられれば良いのですが…。
社会・世間一般を凌駕する忍耐力
私はこれまで、社会の基準だとか水準を何となく頭のどこかにセットしていて、そこを参照しながら竜太に接していた気もします。親である以上、その基準・水準は厳しめになっていると思います。実際に効力があるのか定かでは無いにしても、家で厳しく躾けされている子は、社会で他者に迷惑をかけることも少ないと考えてしまいます。そういった基準・水準の代弁者の位置付けは勿論必要と思いますが、竜太の親の役割としてはそんな竜太であっても受け入れて受け止めて理解してあげることも必要です。
この竜太の親の役割と社会の基準・水準の代弁者の役割を一人で担うのは精神的にかなり困難です。色々と至っていない竜太を厳しく指摘する一方、そんな竜太のコトを認めてあげる。どうやったらそんな柔軟な物腰が取れるのか、さっぱりイメージできません。そのスタンスは、それこそ一貫性の欠片も無いように思えます。ですが竜太の親には必要な器量です。それを持ち合わせていない今の私は、竜太の親失格なのだと思います。竜太に我慢することを求めていますが、それと同時に竜太を受け入れ受け止められるような尋常ではない忍耐力が自分自身に求められているのだと思えて来ました。そんなこと、とても出来そうに無いのですが、これが私に与えられた試練と思うと、少しだけ立ち向かう気力と勇気が湧いてきます。さて、どうしたものか…。やるしかない、のか。