年賀状、何のため ?
年末を経て年始を迎えると、毎年恒例の年賀状が届きます。私は早々に年賀状文化に疑問を抱き、紙媒体でのご挨拶のやり取りを辞めたので、うちに届く年賀状はかなり限られたモノになっています。それでも残る年賀状のやり取りは、本当に年賀状のやり取り以外にはコミュニケーションを交わさない旧友とのものだけになっており、まぁそれはそれで価値を感じていますが、多くの人の年賀状のやり取りは惰性で続くモノでありあまり価値を見出せないように思えています。
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普段から連絡を取る相手への年賀状
色々な物事が internet 上でやり取りできる時代です。普段のコミュニケーションも、メール、チャットやらメッセージアプリ、SNS、等々でやり取りされています。そのため、私が幼少の頃に経験した過去の関係性だとか接点が立ち消えることも少なくなっているようです。昔は小学校、中学校、高校、大学、就職とライフステージが変わっていく毎に、自身が接点を持つ相手が変わっていき、過去の接点で繋がっていた人たちとの連絡も途絶えてしまっていました。唯一残った連絡手段が年賀状、という状態だったかと思います。その意味においては、年賀状はかなり価値のあったモノですが、今や誰とでも簡単に接点を残せて、普段から連絡を取ることもあります。そんな相手に年始のご挨拶の年賀状。果たして必要なのでしょうか。
モノからコトへのシフト
年賀状を送る行為に、”年賀状” という物質・存在に価値を見出している節があります。やっぱり紙媒体でモノが無いと、みたいな考えだったり発想です。昔はみんな工夫を凝らして年賀状に様々な絵を描いたり、メッセージを考えたのですが、今では色々なテンプレートがタダ同然で手に入る時代です。年賀状を貰えたところで何か価値を感じることもありません。たまに連絡する相手から、家族写真入りのモノであれば相手の生活やら家族の雰囲気が分かり、意味を成すように思えますが、それ以外はイマイチ何のために送るのか、そんな物質・媒体を手にして何を想えば良いのやら、といった感じです。ご挨拶をするというコトが大切であって、モノに固着しながらも、モノにも価値を見出せなくなってしまっているのが現状です。ですが、風習でそこに価値があると思い込み、盲目的に続ける。人の性かもしれませんが、それで費やすコストや時間は割と大きく、早くそんなところから脱却すれば良いのにと毎年この時期になると思ってしまいます。