最後まで残るコミュニケーションのコスト
2018/10/22
大学で情報科学を先行し
研究室の配属においては
情報通信をテーマにしていました。
まぁ大学時代は落ちこぼれていて
研究とか全然上手く出来ませんでしたが。
とは言え、当時から “情報通信” には高い関心がありました。
携帯電話を 1 人が 1 台持つような時代になってしまい、
個々が直接コミュニケーションを密に取る時代でした。
その一方で、インターネットの普及に伴い
多くの情報が個々の間だけでなく
多くの人々に届く時代になっていくような時代でした。
これに伴い、人々の活動は飛躍的に広域になったように思えます。
物理的な制約を課題とせずに
多くの情報に触れられるし
多くの人々とコミュニケーション・情報交換が出来るのです。
しかもそれは internet という安価なアクセス方法で実現出来ています。
専用線だとかの高価な通信インフラではなく。
つまり一般人もこの情報社会の主役になっている日々なのです。
スポンサーリンク
残り続ける課題、虚偽
こんな感じで
人と人は簡易に、安価に、便利にコミュニケーションを取れるように
なってしまっているわけですが
相変わらず付きまとうコストが存在します。
情報の確からしさ、です。
これは何も、
インターネットであったり情報社会の悪しき副産物
という訳ではないように思えています。
人と人がコミュニケーションしたり情報交換する際に
確かめるのがずっと困難な課題が、
こいつの言っていることは本当なのか
という疑問の解決です。
インターネット時代はこれに拍車がかかっただけの話です。
オフラインにおいては
情報発信者の表情や声のトーンやら
アナログ情報をもとに
本当なのか嘘なのか
の判断材料に出来ましたが
その程度であり、決定的な確信ではありません。
インターネット時代においては
この判断材料が欠落しているだけです。
残り続ける課題、齟齬
で、今は本当か嘘か、みたいな切り口で表現しましたが
確からしさ、については他にも課題となります。
例えば、
こいつの言っていることはこういうことだと思う
といった理解の仕方についてです。
我々人間のコミュニケーション手段においては
言葉尻と意図する内容、伝わる内容が完全には一致しないケースが多々あります。
これらの虚偽であったり齟齬を解決するために
現代人は多くの時間とコストを費やしているように思えます。
これはまだ、決定的な解決案が無いように思えていて
そこの技術進化なり生物的な進化は
全然進まないものだな、と最近ぼんやりと思うことがあります。