肯定感と反省点のバランスは難しい
このブログでは育児生活を中心に綴っています。子どもたちに時間もお金も労力も注ぎ込んだ生活を続けていますので、ほぼ毎日、子どもたちのことで頭いっぱいになっています。それだけ子どもたちのことが大好きで気にかけているからこそですが、子どもたちには厳しく接し過ぎているのも否めません。子どもたちにとっては理不尽に怒られていてストレスも感じていると思いますが、将来、子どもたちが大きくなってから、私の想いが伝わると幸いです。
私が厳しくする理由の一つとして、子どもたちの向上力というか改善力を気にかけてのモノがあります。何か失敗したとき、次の成功に向けて改善してほしいのですが、子どもたちにはまだまだ難しいようです。
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他力本願からの脱却
今の子どもたちの年齢ではまだまだ難しいと思いますが、うちの子どもたちは “取り組みましょう” と用意されたものに取り組んでおけば結果も含み保証されていると錯覚しています。また、たまにやらせれ感が満載なところがあります。
例えば漢検の練習。毎日決められた量をしっかりやっていくことは最低限であり、それをやったところで結局のところ該当の漢字を覚えられていないようでしたらその取り組み量は “足りない” ことになります。が、子どもたちはその理解がまだ浅く、やれと言われているモノをやれば良い、と思ってしまっています。それだけやれば私からの文句が無いだとか、それだけやっておけば絶対合格するとか、そういったものではないのです。その取り組みで覚えられているかどうか、それは自分の話なので、十分か否かは自分で判断する話なのです。
出来ていない点を省みる
似た話として、自分では出来ていると思い込んでいる物事。それに対して、事実として出来ていなかったり不十分なところはしっかりその旨を伝えるようにしていますが、これが子どもたちの肯定感を損ねるらしいです…。このバランスは非常に難しいです。肯定してあげて気分を乗せた方が良いのかもしれませんが、そうすると本人たちは錯覚します。それこそ、もう自分たちはやることをやったのだから、それで上手く行かなければ自分の責任ではない、と思われると随分と間違ったことを教えていることになります。
過小評価する必要はもちろんありませんが、何が出来ていて十分で、何が出来ていなく不十分で改善が必要なのか。そういった分析から目を逸らさないようにすべきと考えています。きっと子どもたちにとっては耳障りでしょう。ですが、私が幼少の頃に自分の力量を勘違いして、思っていたところまで出来るようになるまで随分と苦しんだ経験があります。勘違い分の穴埋めだったり追いついたりすることは非常に苦しく難しいのです…。
なぜ私は気づけなかったのか、なぜ周りは教えてくれなかったのか、そんな風に思いながらもがいた記憶があります。そんな感じの手遅れにならないためにも、子どもたちには伝えるようにしています。が、どちらが小さな子ども向けに良いアプローチなのか。悩ましい話です。