朝の “行ってらっしゃい” (子どもたち)
私がまだ実家で両親と暮らしていて、学校に通っていた頃、学校に向けて家を出る際には母親に玄関まで見送られ、”行ってらっしゃい” と言われていました。勿論、その声掛けの答えは “行って来ます” です。何気ない毎朝のやり取り。子どもの頃にはそれに何の意味があるのかも分からず、親がそうするのでそうしていた、程度にしか思っていませんでした。
今、私は子どもたちに “行ってらっしゃい” を言っています。今ならなぜ親がこんなことを毎日していたのか、わかるような気がします。
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想いを乗せて
毎朝、私の場合は仕事、子どもたちの場合は学校が控える中でのバタバタは本当に慌ただしく、忙しいという漢字は心が無いと書くんだよ、なんて説明は本当に的を射ているなぁとシミジミ思います。本当に殺伐とする忙しさです。ようやく出発の時間を迎えて子どもたちが家を出る際、子どもたちのお見送りをしています。エントランス部分まで一緒に行き、子どもたちに向けてかける言葉は勿論 “行ってらっしゃい” です。その後、歩道を歩く子どもたちが見えなくなるまで眺めています。
“行ってらっしゃい” には、”ここから先、私のお手伝いは届かなくなるけど無事にしっかり自身の力で過ごして、学校なり何なり、しっかり楽しんで幸せになって欲しい” といった願いを無意識のうちに込めている気がします。
自身の区切り
子どもたちに向けた想いもさることながら、親である私自身の区切り・締め括りでもあるような気がします。子どもたちが自身の手の届かないところに向けて出発することに対して “行ってらっしゃい” と送り出し、自分自身は自身の責任を果たすよう頑張るための意気込み。私が学生の頃、親だとか大人がどういったストレスを、どういった責任を、どういった不安を抱えているのか想像も出来ませんでした。
大人になった今、当たり前ですがそれが自分事になっています。育児は大変です。ですが育児を離れて取り組む仕事も大変です。育児世代の年齢・年次で取り組む仕事はそこそこ厄介で重いモノもあるでしょう。これまで家庭・育児と仕事の両立でサバイバル生活していたこともあり、仕事の成果だとかは二の次でした。ですが子どもが小学生だとかどんどん年齢を重ねると、育児を理由に仕事を放り投げることも無くなり、その代わりに責任を果たす取り組み方となります。
これまで、仕事を通じた成長の機会を色々な理由で見逃していた私からすると、この状況が物凄くストレスで気持ちが不安定になります。ですが逃げる訳にも行きません。それこそ家族のために。そういう意味においても、子どもたちに “行ってらっしゃい” といって区切りをつけて、気持ちを入れ替えて覚悟を入れる。これが親・大人の事情なのかもしれません。