双龍の父、大地に立つ

双子座、AB 型、晩婚理系男子が双子を授かりました

語学を学習すると母国語の許容範囲も広がる

   

このブログでは何度も触れていますが、私は育児生活で時間が足りない中でも、何度も時間を見つけて英語の学習に取り組み続けています。と言っても、具体的には NativeCamp を用いたオンライン英会話レッスンや Ankidroid に単語等を登録して覚えるといった取り組みに留まっています。

がしかし、こうして母国語ではない言語の勉強をしていると、海外の人が日本語を勉強することの大変さに共感出来ますし、子どもたちが大人でも忘れ勝ちな漢字を小学生の履修範囲として勉強している様を見ると、やはり語学の習得は難しく時間がかかるとヒシヒシと感じています。そのためか、海外の人が日本語で話をしているのを見ると、いつも上手だな、と感心してしまいます。

スポンサーリンク

日本語が全ての世界の狭さ

以前もこのブログで時折触れていたと思いますが、私が幼少の頃は両親共々英語を話せませんし、家族全員が生活の中で英語を必要とするケースがさっぱりありませんでした。実家は田舎にあるので、国際的な何かに触れる機会もありませんでした。極稀に、例えば学校の同級生がドイツに引っ越して数年して帰って来ただとか、もしくは家族の友達がシンガポール旅行に行ってきた話を耳にしたりとか、そんなときくらいです。なのでそういった話はかなり特異で例外的なモノとして捉えてしまっていて、全く自分事に思えず、完全に他人事といった感じです。

そんな視野の狭さで育って過ごしていたため、たまにテレビとかに映る海外の方の日本語がタドタドしく耳障りな感じに思えていましたし、不自然なイントネーションや細部の表現の間違いが滑稽にも感じていました。今にしてみればこれ、自身の視野の狭さから生じる許容範囲の狭さが故と思います。非常に恥ずかしい感覚です。

会話・意思疎通出来ていることの重要性

言語の目的は意思疎通です。言わずもがな、です。流暢であることだとか、発音が完璧であることは、優先されることではありません。言い間違いを訂正しながらも、言葉に詰まりながらも、文法の細部が間違っていながらも、それでも伝えたいコトを伝えられていて、相手の言うことを理解出来ていれば言語の目的は達成しています。

それなのに、なぜキレイな発音だとか流暢さが求められるのでしょう。それは恐らく、基準が高過ぎるのだと思います。一つの言語だけで生活し続けていれば、集団でその言語が完璧に仕上がるでしょう。まぁ勿論、読解能力だとか表現能力は別です。それは国語力なので、算数・数学・理科・社会といったアカデミックな領域です。そうでは無く、通常の日常会話において、一つの言語だけで暮らし続ける手段が居ればその集団の中での基準は極めて高いモノになります。一方、外からやって来る人が多いような地域や集団は、不慣れな共通言語の使われ方に慣れた集団となり、基準が低くなります。聞く方も補完力が高まり、相手が言わんとすることも推測出来るようになります。もしくは自身が他言語を学ぶ立場であれば、言葉の習得度に謙虚な心が生まれ、これもまた許容の幅を広げることになります。

にほんブログ村

↓1 日 1 回の応援クリック、よろしくお願いします m(._.)m にほんブログ村 子育てブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキング

↓1 日 1 回の応援クリック、よろしくお願いします m(._.)m 育児人気ブログランキングへ
育児 ブログランキング

Facebook ページ

 - 父も勉強