おっかなく、頼もしく、寂しく
先日、子どもたちが自ら丸付けすることになった話をしました。うちの子どもたち、今は小学 3 年生ですが、もう中学受験を鑑みると 4 年生扱い。子どもたちが通う塾での指導方針も、このタイミングで本格化した感じがあります。科目が増えたことも然りですが、斬新に思えた変更は、丸付けです。これまで親が丸付けすることが当たり前でずっとそうしていました。塾からの指導も然り。ですが、これからは自分で丸付けすることを求められ始めました。
自分で丸付け出来るのか不安でしたが、覚束ない手つきや姿勢で丸付けに取り組む子どもたちの姿を見て、物凄く感慨深いモノを感じました。
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関与が一つ消える
小学生の親のタスクとして、子どもたちが取り組んだ問題の丸付けが言及されることがあります。まぁまぁ大変です。面倒っちゃ面倒ですが、もう当たり前で日常化していることもあり、何ら違和感もなくずっと取り組んでいました。正答・誤答の結果を通じて子どもたちとやり取りがあったり、特に誤答となった場合の解説をしたりと、子どもたちに関与することが当たり前な生活でした。
が、子どもたちが自分で丸付けするようになって、その関与が一つ、無くなってしまいました。先日、早速、自ら丸付けをしていた子どもたち。丸付けを誤ってしまうと誤った内容で覚えてしまうことを注意喚起しながらも、子どもたちの丸付けを見守る。これまでの関与ではなく、傍から見守ることになりました…。
複雑な感情
前述の通り自分で丸付けさせていて、見守っていてもどうにも不安です。なので、丸付けできたのか、ちゃんと出来ているのか問うと、竜太が “間違っていたけど答えの解説読んだらわかったよ” と言っていました。それを聞いて本当にしっかり理解したのだろうか、といった不安も抱きつつも、自立して勉強に取り組めている様に頼もしさも感じました。こうして子どもたち二人は自分で学ぶようになっていくのかと思うと、何か寂しさすら感じる程です。
これまで子どもたちの勉強のパフォーマンスが燻ぶっているあたりに焦燥感を持っていましたが、テストだとか何かの結果ではなく、勉強の過程において子どもたちの成長を感じました。確かにテストだとか中学受験の合格だとか、結果は人生をも左右するくらい重要です。が、それよりも自力で勉強に取り組めるようになり、自ら学んでいくことが出来るようになる、と言う点も、長い子どもたちの人生を考えると重要なことのようにも思えます。まだまだ不慣れな中、一生懸命、丸付けまでしている子どもたちの姿に、妙な愛おしさを感じてしまいます。大きくなったものです…。