無意識・自覚的に線引き

このブログは子どもたちが生まれることをきっかけに始めた育児ブログです。子どもたちももう小学生 4 年生。保育園時代のように病状や成長についての悩みはちいさくなりました。その一方で子どもたちの学力が悩みのタネになっていますが、やはりただ単純に楽しい取り組みと違って、頭で理解しているだけの必要性で取り組む勉強は、どうしても行動に移す程のモチベーションだとか集中力を維持出来ません。
それは小学生にだけ言えることでは無く大人にも該当する話があります。取り組む物事やその必要性を理解しながらも行動に移すことが難しいことが多々あり、そういったことを後回しにし続けていると、大人なら “だらしない” といったレッテルを貼られます。が、そういった人は頭の何処かでその点を気にしていないのだと思います。
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本当に必要と思ってない
真の意味で理解しているだとか共感している状態だと、その人の行動似現れて来ます。行動に現れて居ない人は、行動に移す程の腹落ちが出来ていない状態なのです。つまりその人の中の優先度がかなり低く、他のことを優先してしまってせっかく理解したり教えてもらえていることを後回しにしているのです。こう言った人と真剣に会話するのは結構困難です。相手の言動の不一致に、かなりストレスが溜まります。
でもこういう人たちは、何を言っても教えても、恐らく変わらないと思います。変わる必要を感じていなく、毎回、頭では理解しているものの出来ていない物事に対して何か罪悪感だとか後悔だとか改善を思うことが無いのです。今のまま、現状で問題無いと思っています。
期待せず、想定すると気が楽か
人間は独りでは生きていけません。概ね何かの社会、コミュニティに属する形で我々は生活しています。その中には勿論、他者との接点もあり、その煩わしさから逃げるために孤独を保つ人も居ますが、そういった人も真の意味で独りで生きているとは言い切れません。むしろ社会の中で生きていながらも他者との関わりを最小限にするという良いところ取りをしている状態です。
なので、必ず誰かしらとの接点中で生きることとなりますが、その接点が一番身近な相手はやはり一緒に生活を共にする人たちと思います。恐らく多くの人に該当するのが家族です。その家族に対してだらしない点に目くじらを立ててストレスを溜めてしまうことも多々あるかと思いますが、自分以外の人を変えることは非常に困難です。そのためにも、相手には過度な期待を持たず、どうせ出来ないだろうな、やらないだろうなと諦めにも似た境地で想定することが最善で現実的に思えています。我が家での暮らしを踏まえると。