多様性は文化・芸術までも変えられるか ?
昨日、子どもたちの通う小学校での習字の授業について触れていました。左利きの竜太にとってはちょっとした試練だったりストレス要因になりそうです。多様性は受け入れられるべきと考えておりますが、それと同時に、社会は私たちが思っている以上に合理化・近代化されている訳ではなく現実は理不尽なモノが多々あることを実体験として経験する題材としては良いのではないかと前向きに捉えていたりします。竜太の毛筆に対する思いの強さがどれほどか。もし強いのならこの逆境を克服してもらいたいモノです。
といった感じで我が家の事情的にはモヤモヤしながらも頭の整理が進んでいますが、よくよく考えると根深い話ですよね。これ。
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多様性を受け入れる流れ
世の中の流れで多様性のコトを考える機会が増えた気がします。職場においても多様性を受け入れることが重要と声高に触れられています。そのことに対して何の異論反論も無く私自身も協調しています。恐らくそれは子どもたちの影響が大きいです。育児に取り組みながらの生活は、育児に取り組んでいない方々の生活と随分と異なります。同じことが介護にもあるでしょうし、障がい者の方々の生活だったり、外国籍の方々の生活だったり、性的マイノリティの方々の生活だったり、色々な方に言えると思います。
このように考えると、各自の生活・人生は違っていて当たり前ですし、その違いがある中で皆がパフォーマンスを出せる環境作りがビジネスにも求められています。
多様性はどこまで
利き腕も多様性の観点では考慮すべき事柄です。以前は右利きに矯正されていますが、今では左利きのまま生活する人も増えています。左利きの方々を考慮した設計なども増えています。がしかし、文化的に美しいと定義されるモノゴトが右利き前提となると、これを変えることは一筋縄に行きません。そもそも美しいと感じるモノゴトの定義から変える話になり、我々に染み込んでいる美しい字の定義を変えることなんて不可能と思います。
竜太の通う学校の習字の先生が左利きらしく、その先生も右手で毛筆に取り組む練習をした背景もあり、なおさら話は右手で習字を取り組む流れになっています。竜太のモチベーションが心配ですが、その先生が前例となれば良い機会かもしれません。右手も鍛えて両手使えるようになると便利だと竜太には前向きに話していますが、私の本心では左手で書くコツをその先生が身に付けていてくれて、竜太が左手でノビノビ楽しく字を上達させてくれりゃいいのになぁと思っていますが、そういう背景で無いことを受け入れることもまた、多様性なのかもしれませんね…。