自分の父親と同じ傾向で感じる老い

このブログは子どもたちが生まれることをきっかけに始めた育児ブログです。子どもたちはもう小学 4 年生。今年度に 10 歳になるのですから驚きです。生まれてから 10 年も経ったということです。子どもたちが生まれて間もない頃は、子どもたちの病状や成長が悩みの種だったり、毎日のサバイバル感が主な話題でしたが、今では子どもたちの学力が専らの不安だったりします。成長という意味では子どもたちの心の弱さが気になります。精神年齢が低く、ずっと赤ちゃんっぽいまま。早く心が成長して自立に向かって貰いたい一方で、そうなるともう相手にされなくなるかと思うと寂しさも感じます。人間は身勝手な生き物ですね。
子どもたちが生まれて 9 年とか 10 年経つということは、それと合わせて親である私もその年齢の分だけしっかり老いています。最近は更にそれを感じることが多くなりました。たまに目にする自分の頭頂部を自身の父親に重ね、自身の老いをヒシヒシと感じています。
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学生の頃の父親についての記憶
私は高校を卒業して大学に入学し、大学生活が始まったタイミングで親元を離れて生活し始めました。高校生までの間は親と生活していましたが、いつの頃だったか、自分の父親の頭頂部が薄くなっていることに気が付きました。少なくとも高校生までのところでは気が付いていたと思いますが、一番早くて小学生の頃だったか、中学生の頃だったか、イマイチ記憶が曖昧です。気付いてしまってからは、父親の頭頂部は既に薄いという認識に update されてしまっていますから、いつのタイミングだったのか全然覚えていません。よく、父親の頭頂部が薄いことを言及すると、父親はそれを謎に否定していました。なぜ否定するのかさっぱり意味不明でしたが、恐らく、自分でマジマジと自身の頭頂部を見る機会もあまりなかったので、何となく自覚はあるものの、決定的に認める程の認識は無かったように思えます
そんな父親の頭頂部の記憶が割と鮮明にあるので、自身の頭頂部が最近、同じようになっていることに妙な感じがします。年老いた父親のイメージでしたので、自分自身もそうなっていることに悲しさを感じます。頭頂部が薄い悲しさというより、そこまで歳を取ったということに対して。
イライラと神経質なところも
私が幼少の頃、父親はすぐ怒る神経質なイメージがありました。どうしてそんなに細かくイライラとして怒っているのだろうと疑問でした。がしかし、最近の私の子どもたちに対する態度を客観的に見ると、自身の父親と同じくイライラとよく怒っています。大人になって子どもが出来たらそんな風になりたくないと思っていたのに、結局そうなってしまいました。
ただ、自信の父親と比べて決定的に違うのは、子どもと過ごす時間の長さや機会の多さです。私は自分の父親とあまり多く時間を過ごしていませんでした。父親の勤め先はサービス業だったので、土日がお休みでは無いので家に居る時間が噛み合わないのです。一方、今の私は他の多くの企業と同じく土日がお休みの会社に勤めています。しかも子どもたちの帰宅時間に合わせて私も家に居るようにして、子どもたちの下校後の対応をしていますので、私の父親よりも多く子どもと接しています。その分、子どもたちに対するイライラやストレスも多くなっているのです。
という口実もありますが、事実、結果的に自身の父親と同じになってしまっている点が非常に皮肉です。そしてこれが意味するところは、自身が今後どのような姿かたちになっていくのかも容易に想像することが出来るということです。自身の未来の姿なんて、見たくないものですね…。