任せていることには文句ではなく感謝
このブログは育児生活を中心に綴っています。前回も記載しましたが、育児を通じて、親は人間が人間の社会で生きて行くうえで必要な基本や基礎を再認識して、その重要性に気付くことが出来るように思えています。基本や基礎過ぎることなので、大人になってしまうと当たり前過ぎて言わずもがな、な感じになっています。ですが、こうして子どもたちに指導・教育していると、自身にも当てはめて考え、至らない点だとか本来こうあるべきという理想像を考えさせられます。
人間は一人では生きていけません。それぞれが持つ個性や趣味嗜好や強みをもとに、自身の得意とする取り組みに専念して分業することでここまで反映して来ました。このシステムを支えるモノはお互いの感謝の気持ちだと思います。
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文句をつけるからおかしなことに
何かしらの理由により、自身で取り組むのではなく他者に取り組みを任せることがあります。その場合、本来は自身で取り組むべきモノですが、自分で取り組むより効率的なので任せている形です。任せた取り組みが終わり、結果が出た際に、文句をつけるとおかしな話になっていきます。前述の通りその取り組みは本来自分でやるべきことなのですが、それを自分の代わりに他の誰かが担ってくれたのです。どんな出来栄えだったとしても、まず初めに感謝が生じなければおかしな話です。
ではなぜ文句が出るのか。それは任せる相手よりも自分の方が上手く出来ると思っているからだと思います。もっと上手くやれ、そうでないと満足できない、と。勿論、ある基準値以上を実現することを条件に任せ、その代わりに報酬として対価を支払う形であれば、基準を満たせていない結果に対しては文句をつける流れもわかります。ですが、これを仲間同士だとか、本来協力すべき間柄で行うと、それは途端に不調和を生み出します。
文句をつけて訪れる結果
前述のように金銭的な契約や約束事ではなく、お互いに助け合う間柄で相手の取り組みに対して文句をつけると、事態は酷い方向に転がって行きます。まず一生懸命取り組んだ人は文句を付けられてどう思うでしょうか。そんなこと言われるなら代わりにやってあげなければ良かった、と思うのが自然ではないでしょうか。そんな文句を言うなら自分でやってください、と至極真っ当な回答が返って来そうです。これは前述のように人間が栄えた分業のシステムと逆行します。そしてそう切り出されてしまうと、そんなこと言われるなら自分でやる、その代わり自分が代わりにやっていたことはもうできないからそれは自分でやれ、と言って、お互いの代行をお互いに返し合う流れがどんどん連鎖します。
結果的に文業は破綻し、全体最適が崩れ、その集団全体のパフォーマンスは著しく落ちるでしょう。そんなことは眼に見えて明らかですが、感謝の気持ちを育んで表現する練習が出来て居ない人にはこれを未然に防ぐことが難しいかもしれません。いつでも自分中心に世の中が回っていると思っているような人には。